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施工事例

【小田原市久野】 海が臨める制震住宅

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【小田原市久野】 海が臨める制震住宅

オイスター プリンス ウォッチの精度を検証するべく、BBCからの放送信号が使われた。

スーパーコピーオイスター プリンスが支給されたもうひとりの探検隊員、デスモンド・“ロイ”・ホマード二等軍曹(当時)は、機械工の訓練を受けていた整備士だった。彼は戦後連合国占領下のオーストリアで、シュタイア・ダイムラー・プフ(Steyr Daimler Puch)工場に勤務し、追跡車両の整備、修理を経験していた。ホマードの専門知識は、探検隊の重要な役割を果たす追跡型ウィーゼルの仕事にぴったりだったため、BNGEの隊員募集の広告に応募したのだ。ホマードは3年間ともに過ごした妻のイニド(Enid)をイギリスに残し、1953年の2年目からBNGEに合流した。

ホマードは整備士の仕事として、グリーンランドの氷帽という厳しい環境下でウィーゼルを動かし続けるという責任を負っていた。「強烈な寒さのなか手袋を外して修理しなければならなかったため、車両作業は本当に苦労しました」とホマードは語っている。「クレバスがあるので移動だけでもとても大変でした。ですが私の仕事は台車、ボギーホイール、ドライブホイール、バネ、エンジン、ギアボックスなどを交換する車両整備です。これをずっと外で行うのは非常に大変な仕事でした」

ホマードがイギリスに帰国するころには、彼は寒いところが好きになっていたのだろう。すぐに野心的な取り組みにトライしたのだ。それが1956年の、有名な極地探検家ビビアン・フックス(Vivian Fuchs)博士が率いる南極大陸横断隊である。この南極滞在中にホマードは、スコット(Scott)船長率いる不運な(帰途遭難)探検隊のローレンス・“タイタス”・オーツ(Lawrence "Titus" Oates)に次いで、南極点に到達したふたり目の英国人現役軍人となった。この功績が認められて、ホマードは帰国後にグリーンランドでの活動でポーラーメダル(極地メダル)を、南極探検の活動でイギリス女王からクラスプが贈られた。それはいいとして、ホマードのチューダーウォッチはどうなったのだろうか?

British North Greenland Expedition
グリーンランドの氷帽を越えて移動することは危険であり、技術的にも困難だった。

1956年の南極大陸横断隊に出発するときのこと、ホマードが残したオイスター プリンスを、イニドがすぐに自分の腕につけると言い出したという。しかし彼が帰国するころには、彼女はもうその時計を身につけておらず、ホマードもそのことをすっかり忘れていた。それから月日が経ち、妻のイニドは亡くなってしまうが、その直前に彼女は時計のことを話していた。

「彼女は“あなたが持っていたチューダーの時計を知っているか...”と、なぜか急に思いついたように言ったのです」とホマードは言う。「私はイギリスノースグリーンランド遠征探検のために、チューダーがプレゼントしてくれた自動巻きの時計だと伝えました。でもその場で私たちは話題を変えて、彼女はそのことに触れることはなかったんです。なぜ彼女がその話を持ち出したのかわかりませんでした。私は彼女が時計をなくしたか、手放したのだろうと思ったのです」